昭和四十五年十月八日   朝の御理解


X御理解第二節
先の世まで持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。


 信心すれば誰でも、御神徳が受けられる。お道の信奉者、いわばお道の信心を頂いておる人達がみんなお徳を受けておるとは思われない。おかげの方はみんな、おかげ受け取りますけれども、御神徳を受けとるとは思われない。
 けれども誰でも受けることが出来るという可能性、誰でも信心すれば御神徳を受けられる可能性は、みんなが持っておるのだということです。あの人はあんなタイプの人はもう御神徳は受けられん、あんなタイプの人が御神徳受けるというような事じゃない。
 これはもう誰しもが御神徳受けれる、いうならタイプだという事が言えるでしょう。人間である以上、誰でも信心すれば御神徳が受けられる。
 そこでその私共はそれを思いますけれども、御神徳が受けたいと云うて、信心をする人はあるに致しましても、ごく少ない。御神徳が受けたいという、又信心するような人は、御神徳が受けられんのじゃないだろうかと、私は思う。
 御神徳を受けたいばかりに信心をする。それは自分の生活の中にですね、信心させて頂いておる者の幸せというか、有り難さというものが、しみじみ感じられる。これが御神徳いうもんじゃなかろうかというように、気付かせて頂けれる。ですから信心がいよいよ楽しゅうなってくる。
 信心がいよいよ楽しゅうなってくるとそういう信心から、お徳をうけられると思う。
 御神徳を受けるためにひと修行しようなんて、それはおかげを受けるためにひと修行するのあって、御神徳に響くだろうかと。
 御神徳を受ける為にひと修行するというより、これはまあ、まあけなげな心を起こすということもですね、神様がレンコン食うて下さるようなおかげは受けられるようですね、そういう信心すると。
 あれだけ、一生懸命頑張っとるから、まあまあという気持ちで神様がレンコン食うて下さる。だから、神様からレンコンども食うて頂くような信心では、お徳は受けられん。
 本当に素晴らしいと、あの氏子はと、神様の眼が止まるような信心でなからにゃならん。そういう信心にお徳が受けられる、だから、お互いがそういう信心になったら誰でも受けることが出来るという事になる。
 お徳を受けられた方達の姿というものをを見たり、又、お話を聞いたり致しておりますと、みんなそんな方ばかり、御神徳を受けたいと思うて信心しておられるのじゃない。何かの機会に一生懸命に打ち込む。
 その打ち込んだ信心から、信心の喜び、信心の楽しさ、そのようなものが身に付いてくる。いうならばそこには、もうしるしさとかね、苦しさといったようなものはない程しの信心。
 これは私が御神徳を受けておるとは思いません思われませんけれども、私共でも、段々おかげを頂いて、本当に現在、ここでこうやっておかげを受けておる。いうなら神様からの借り物のようなおかげを、あの世までも持っていけれるおかげに仕上げる為に、いよいよ信心させてもらわなきゃならんと、思うんです。
 先日、熊本の日奈久の富永先生がお参りして見えてから、親先生、親先生の御信心の中で、まあ様々な御修行をなさった話を聞いとりますが、どういう修行が一番つらく感じられましたか、とこう聞かれたんです。
 私も改めて、自分のいうなら修業時代とでももうしましょうか、その時代の信心を思うてみた。
 本当に様々な信心修行をさせてもらいました。表行でいうなら、火の行こそしませんでしたけれども、水の行水行も致しましたし、断食の行も致しました。例えば御本部参拝させて頂くのに、座ったり、かけたりどもして、お参りしたんじゃ、相済まんと思うて、勿論、あの時分は交通事情が悪うございましたから、例えば席があってかけておるに致しましても、後ろに寄り掛かるということは、致しませんでした。
 福岡から久留米まで、電車で帰って参ります時も、電車にかけてからども、帰るような事は絶対致しませんでした。もういつも吊革を捕まえて、それでも捕まっとりましたですね、吊革を捕まえて立って帰って来る。
 しかしそういうことがですね、ひとっつもしるしい事がなかった。そういう修行させて頂きよることが、楽しゅうて、有り難うして、たまらんじゃったです。これはもう本当にそうです。
 どんなに寒中の寒い時であろうが、炎天のそれこそ焼けるような時であろうが、久留米の櫛原の教会にお参りさせて頂くのですけれども、本当に今から考えて見て、しるしいとは思わなかった。
 炎天のさ中に、久留米にお参りをさせて頂く。それはやっぱ人情で、つい、ですね、家があるなら、家の陰の所を歩かせてもらう。そしたら神様から「楽をしたい心は、もう堕落をする心ぞ」と頂いたら、信心ちゃ、難しいなあ、とはいっちょん思わなかった。ほんにそうどころじゃなかろうと思うてから、自動車のどんどん通りよる所の真ん中の日の照る所を通らせて頂いた。
 これを仕事と思うたら、丁度夏の盛りの頃でしたから、左官さんが瓦の上に上がって仕事をしておるのを見せて頂いて、「仕事となりゃ、いわば焼け付くような瓦の上に上がってからでっちゃ、仕事をしよるじゃないか」というようなですね、お知らせ頂いてから、ますますそういう思いが致しました。信心ちゃほんにこれは辛い事だとは思わなかった。成る程ほんにそうだと思いました。
 もう本当に凍てるような道が凍っております。それを日よりむくりのやら、履き物を履いてから、三里の道を歩いてお参りするのですからね、もう
夜中の寒中のカラコロカラコロ音がするのです。道が凍っとりますから。
 もう自分のカラコロカラコロ、いう足音を聞くのが楽しかった。これから三里の道を歩いて行かにゃいけんなんていっちょん思うた事はなかったです。本当に。
 まあだ、いろいろとその修行させて頂いたけれどもです、ただ、させられる修行とでももうしましょうかね、例えばお金の支払いが出来ずに、支払いが出来ませんから、断りに行かなければならない。これだけは辛いと思いましたね、。
 けれども自分が例えば信心させて頂く、それでもやはりやっぱし、頂き抜かせて頂く、そこから何かを得らせてもらうという生き方。
 もう借金払いに行かなきゃならん、借金のことわりに行かなきゃならん、何遍も何遍も、嘘になって又、嘘言いに来たかと、相手から言われるような事もございました。それはやっぱり辛かったです。
 けれどもやっぱり、そこを行じさせて頂いた。御神意を分からせて頂くと、その事がその後には、それこそ感涙にむせぶ程しに有り難さを感じておった。
 小倉の桂先生が、又は福岡の吉木先生が、久留米の石橋先生が、又は親教会である、三井教会の初代がなさったというような、お話を聞いておる修行はもうあらかたさせて頂いた。曲がりなりにもさせて頂いた。
 そういう修行が本気でやらして頂くということになったら、いうなら楽しゅう出来る。だから問題はその事にそう打ち込めるかどうかということ。当たり前の信心をしとって、普通の信心しよって御神徳が受けられるということは、まずあり得ないと思うですね。少しは違わなきゃ。その違った信心をするのも、そんならはまったら出来るという事、しかも楽しゅう出来るという事。
 昨日末永さんがここへ出て参りましてから、今朝方からおしらせを頂いた。
五に二を掛けておる、かけ算をしておるところであった。だから二×五=十
 だから普通の信心がですよ、たしざん、五に五を足せば十になる、十に十を足せば二十になる、こういう信心すりゃ、こういうおかげが受けられるというだけの事。
 私の頂いた御教えの中に「神の言う事にも、ひいたり、足したり、掛けたり、割ったりという事がある」昨日の朝の御理解なんかは、そうですね。普通ではなかったですね。
 やはり神様は神を商法に使うてはならん、というあの御理解でした。けれども本当言うたら、入場料でも取ってお話を聞いてもらった方が、本当にひとが助かる、本当におかげを受けると言う事に於いては、それの方がおかげ受けられると言ったようなお話ですから、神の言う事にもひいたり、足したり、掛けたり、割ったりを感じましたね。言葉では足すというおられますけれども、実際には昨日は、割ってお話をしたと言ったような感じが致します。
 だから、末永さんが頂いておるのも、お互いが普通の信心を足し算、五に五を足せば十になるというような、けれどもあんたのは、成る程かけ算にはなっとるばってん、かけ算でん、足し算でん、同じ事じゃないか。二・五=十じゃから五と五を足せば十になる。そんなら五に二を掛けておるだけじゃけん、答えは十にしかなっとらん。
 だから、五に五を掛けるならです。五・五=二十五というおかげになってくる。それが御神徳だ。誰でも出来ることじゃない。だから、足し算が出来るようになったら、云わばかけ算も出来る位の信心をさせてもらうというところにです、おかげが受けられる。
 まあ来年は、学院に行かなければならないようになるだろう。いわゆる丸三年合楽で修行することになる。三年かね、四年修行することになる。
 だから、もうあと云わば半年しかない。その半年を出す。神様はあんたに仕上げを求めてござるのだと。その仕上げをいっちょ足し算ではない、かけ算でも、二・五=十というのではなしに、五・五=二十五というごたる修行をさせてもらわなきゃいけんじゃないかというて昨日はなした事でした。
 だからかけ算とはどういう事か、裏もなかなければ、末永さん、ご承知のようにご覧の通りです。これは余談ですけれども、先日家内と話したですけれども、もう本当に家の修行生の人達くらい、素晴らしい修行生はおらん。第一、久富先生の立場にある、年配の先生がとても久富先生のごたる忠実な先生はまだ、見たこともない。おまえもそげん思うかと。
 そんなら末永さんどんでもそうだ。末永さんの持ち場を持っての修行生であの位、信心修行が出来るのは、云うなら修行生の手本だ。
 勝手の方、承っておる修行生の公子さんがです。とてもあれしこ、気がついて、あれだけ行き届く修行生は又とおらんよ。
 上野先生どんでもそうだ。もうこの人に御結界、預けとくなら心配がない。もう絶対と思われる位に、御結界に神様に向かってからの、信心の姿勢というものは、陰日向がないと私は思う。
 もう修行生だけでも、そうなんだ、もうとてもとても、それぞれの持ち場、立場においての、これだけ、俺とお前との周囲を固めておる。教会の教会長、教会長婦人としてです。そこに修行させて頂いておられる人達の、どれもこれも、云うならくずがないどころか、素晴らしい修行生ばかりだ。これは俺達夫婦がどうかならにゃいかんと云うて話したことです。
 まあ勿論、ここの総代さん方から、例えば部長さん級の人達の信心を見て、どの人を見たっちゃとても、素晴らしかろうがて、というて今、部長級の経理の方は茂さんがやっている。総務の方は高橋さんがやっている。正義さんがやっている。文男先生がやっている。
 そのひとりひとりを見て、とてもこげな、部長さんは他の所にはおりはせんよと、もう本当にああたが言なさりゃ言いなさるほど、私は本な事、そうですねと。これは私どんがしっかりせにゃいけませんねと云うてから、夫婦で話したことでした。ほんに私は思いそれだけでも、御礼申し上げねばおられない。
 ただしそれは、私を中心にした場合なのだ。教会を中心にした場合なのだ。自分の家庭でそんなら、一人一人がです、素晴らしい、例えば久富先生で云うなら、あちらのお母さん、子供から、うちのパパは素晴らしいと、果して、云われておられるかどうか。上野先生がそんなら、兄弟やら、云うなら、自分の周囲から、うちの姉だけは、とても真似できん、素晴らしいと、果たして、云われておるかどうか。
 高橋さんなら高橋さんがお店の店員の方から、いわゆる、家族中の人達から、とてもうちの主人のごたる、こういう主人はまたとござらんと果たして、云われておるかどうか、それは疑問である。
 けれども教会を中心としてからの、例えば皆さんの修行の姿であるならば、もうどの人もが今日の御理解から、云うなら御神徳を受けなければ、とにかく受ける者はなかろうと思われる位な、修行が出来ておると言う事なんだ。修行生なら修行生でも。 
 ところがその、これが御神徳であろうかと言う事なんだ、受けていないとするならば、これが御神徳であろうかと云うようなものを受けていないとするなら、これは考えなきゃいけないぞと。これは、私を中心にした場合に、素晴らしいだけの事なんかだと、ではなかろうかと、例えば末永さん皆さんもそう思われるだろうと思うです。
 ところがなかなか如才がないし、利口ですから、なかなか要領がいいところがある。その要領のよかところがあんたはいかんばい、と私がいつも云うのです。要領が良すぎる、それはチンと云やカンと言うごたる。
 ですからそこんにきを、もちっというならむしろ、要領は悪かってもよいから、云うならば陰と日向のない信心とでも申しましょうか。
 そんならここの修行生の一人一人の上に、それぞれの例えば御神徳がもし、受けられないとするなら、もう御神徳を受けられる世界にあることはある。そういう場に、例えばもう、その証拠にかけ算を習いよるです、例えばそんなら末永さんの場合でも。・・・
 そればってん、まあだ二・五=十。二・五=十という事は、五と五と足し立っちゃ、同じじゃろうもん。足し算でん、かけ算でん、だから五・五=二十五というごたるおかげにならにゃいかんという訳なんですよ。だから御神徳を受けると言う事は、だからどんなに素晴らしいと云うても、只人間が見て素晴らしいだけではいけない。神様がご覧になって、ほとほと成る程と思われるような。
 上野先生が先日、おしらせを頂いておるように、それが毎日心の中に頂いた事が、ひっかかっるらしい、自念不徳いうようなことが。自が自ずから念という事。
 それが慈悲の慈になった時に、私は上野先生が御神徳を受ける時だろうと思います。いわゆる、本当の神心なんです。無条件の精進なんです。まあこの位精進する人は無かろうかと思うくらい精進する。
 けれども慈悲の慈に、神心への精進という事に、これから本気にならにゃいけんよと、まあ御神徳を渡したいばっかりに、そういうおしらせを下さってある訳なんです。
 ですから人がやはりにんべんなら、私は行にんべんといったような修行、しかもその修行がです、富永先生にいわれてみて、どういう修行が一番辛かったかと、いわれてみて、辛かった修行があったろうかと思うて。
 それは本当の信心修行に打ち込んでから、いわゆるもう借金払いの方なんか、もう棚の上に上げてしまってからの、こっちの修行の、いわゆる神様に向けての信心修行の場合は無かったと思う。
 まあ通ってきた後だから、のど元通れば熱さを忘れておるのかもしれんけれども、確かに楽しい、有り難いものであったという事。
 やはり、そういう修行でなかなければ、私は御神徳は受けられんのじゃないかと思う。
 私がそんなら、御神徳を受けら訳じゃないけれども、これから、とても、一生がかりでです、やはりその修行に有り難い楽しさといったようなもの、いよいよ加わってくるというような信心修行から、御神徳は受けられるんだと。
 その御神徳はあの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけるという程しのもの。信心のない間は心配をする、身に徳を受ければ心配はない、と仰せられる。 ところが私の場合、ははあ、これが御神徳受けよるとじゃろうと思われる事は、私がおかげ頂いてから、心配はないという信心が、段々濃厚になってきたという事。どういう場合であっても、心配せんで済むおかげになってきた。これは呑気になってきたのじゃないごとある。やはり神様を信ずる心が強うなってきたから、心配せんで済むおかげになってきたと思うのです。
 信心すれば誰でも受けられるというのは、誰でも受けられる、御神徳を受けられる、いわゆる可能性を持っておるという事、なんです。
 金光様の信心しよるけん、みんな御神徳を受けたという事ではない証拠に、私共が知っておる限りの、熱心な信心をしておられたけれども、御神徳を受けておるとは、思われない人がたくさんあるという事。ただ熱心というところじゃない。熱心といや熱心ですね、朝早よからこうやって朝参りでもなさるのですから。
 だから、それだけでは御神徳は受けられない。そこにひと工夫、皆さんなされなければ、御神徳は受けられない。御神徳を受けれる、云わばお互いが人間は誰でもが信心をすれば御神徳が受けられる可能性を持っておるという事。
 それにはひとつ、本気でね、いわゆる本当の意味に於いての信心生活。ひとが見て素晴らしいのじゃいけない、神様がご覧になって素晴らしいなと。あの氏子はと、神様のいよいよご信用を頂くという事が、御神徳を受ける事なのですから、折角信心させて頂くのですから、そういう信心をさせてもらう。だから、御神徳を受ける為という事ではない。
 そういう信心を何かの機会に本気でさせて頂いて、これが御神徳であろうかと、普通はみんなが、苦しい苦しいと。
 久保山先生が私に云うておられた。昔私がもういよいよもういうなら、どこを押しても楽なとか、有り難いとか、全然思われなかったけれども、私が有り難い有り難い、もったいないもったいないのお話をして回る。
 だから、大坪さん、ほんなことそげん有り難かつですかというて、云われよりました。もうそれこそ有り難うして有り難うして、楽しゅうして楽しゅうしてこたえんじゃった。
 その自分の私の修行の姿は本当に後光が差すような思いを皆さんが感じて下さったというような話を何人からの聞いた事がある。私は・・・
 なんとはなしに、云わば後光が射すというのは、なんとはなしに信心とは、尊いもんだなぁと、感じて下さったという事。私の姿から。
 正義さんなんかも一辺、私の修行中の自分に、私の信心の姿の中から感じた事があると云うて、お話を聞かしてもらって、私はうれしいと思うたという分けじゃない。成る程一生懸命の信心修行の姿というのは、確かに尊いのだ。
 そんなら、うちの修行生の方達が、今申し上げますように、素晴らしいと、私共夫婦が思うておる、感じた。皆さんも思われるだろうけれども、尊いなと迄は、まだ感じられない感じがする。
 ですからそこんところの信心をね、身につけてこそ私は神徳が受けられる神様のご信用が、いよいよついてくる。神様の信用を受けたいばっかりに、こうするああするというような事ではです、それはまだまだ、あれだけの一生懸命になるけん、まあレンコン食うて下さって、おかげを下さるだけの事。
 もうそこにはね、神様が見てござるけんとか信用を受けなければならんから、つとめるといったような事ではなしに、そうすることが、当たり前として、させて頂ける、その姿、尊い姿、そういう姿にです、神様の御信用。いわゆる、御神 徳が受けられると思うですね。                  どうぞ